ルイセンコ論争の要点

 社会のインフラは結構な割合で科学的な技術に頼りきっている。反して疑似科学というものが知られ、インターネット上で調べても大量の話が出てくる。疑似科学とハッキリ判るものと、科学との境目が判然としないものがある。

https://gigazine.net/news/20210505-trusting-science/

 分かりやすい例で言うと新興宗教マルチ商法で見られ、一方で学術論文や科学分野内に混じる疑似科学的な話は大変看破しにくい。そして後述するルイセンコ学説などは大規模な人災として歴史に残る疑似科学の例である。こんなのが科学と同一視されてインフラが不安定になったら困る。

https://www.yomiuri.co.jp/choken/kijironko/cknews/20201029-OYT8T50025/

(前略)

 疑似科学を世間に普及させない為には必要なことは何か?
 それはきちんと科学について正しく学ぶ機会を作ることである。

https://nemlog.nem.social/blog/21511

 疑似科学に対抗して"科学について正しく学ぶ"というと、ちょっと外れた事を考えてしまう。学ぶ"科学"が最初から実際には疑似科学だったら軌道修正が異常に難しくなる。

https://m.youtube.com/watch?v=2fzbya8Gs08

 例えば私の場合だと分類に使用する実物資料の数が一万点程度あって、更に様々な議論・比較観察、また自身で様々な実験もやって漸く先達のしてきた様々な研究の中のどれが間違いで、どれが最適解なのか分かったようなもの。此の30年近くの考察が無いと真実に近づけないとされるなら、分類学は一体何なのかという話になる。

https://jp.quora.com/%E7%96%91%E4%BC%BC%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C-%E5%BE%8C%E3%81%AB%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%81%A0%E3%81%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E%E3%81%95

 科学的な知見というのは「其れが何故嘘でないと言えるのか」根拠が、具体的な手法や再現性を基に明確である必要がある。疑似科学や嘘などと言われないために。

https://tabi-labo.com/217641/lie-human-ppl

 歴史的に言えばDNAの二重螺旋構造が基本モデルとして確定した時の前後の話、STAP事件、常識的な科学の話で言えば実験ノートが必要な理由などで疑似科学のデメリットを説明出来たりするのだけど、調べればいくらでも出てくる話なので詳しくは省く。

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 前置きが長くなってしまったが、擬似科学として極悪の典型例がルイセンコによるもので、其れは半世紀に亘り人類社会に大きな厄災を与えたとされる。科学者を含む大勢の人々がいてなお、半世紀に亘り虚実のイデオロギーが人類を苦しめた。天動説の時代にもやはり宗教由来のイデオロギーによる地動説への弾圧があったが、ルイセンコ学説は共産主義由来のイデオロギーで比べものにならない甚大な実害を齎した。

f:id:iVene:20230713133837j:image[1930年代、故郷ウクライナの小麦畑で穂の成長を計測する当時30代のルイセンコ(右下)と、熱心に見守る農家の老人(Photo by GettyImages)https://gendai.media/articles/-/57443?page=1&imp=0

 しかしルイセンコ批判をしながらルイセンコ主義の駄目さ具合をあまり理解していない人達も結構いる。別なイデオロギーの為にルイセンコ批判は可能という灯台下暗しな事も出来てしまう。なので要点を以下に纏めてみる。

 ルイセンコ農法の結果は間違いなく擬似科学による大厄災であるので結果論からだけでも簡単に批判出来てしまう。ルイセンコ学説は進化論や遺伝学などの生物学分野の多岐にわたり致命的に誤っていた。誤っていただけならリカバリーが可能だったろうが、当時ルイセンコを支配していたイデオロギーが改善を阻んだ。

https://twitter.com/tkmpkm1_mkkr/status/1678344375611293697?s=46&t=6MVYq5Ovmu_MXJ16l5mXpw

 そしてルイセンコ派閥のした誤りと似た事を、今も頻繁にやっている人達は沢山見られる。なぜルイセンコ論争が起きたか。大惨事の結果を導いたのはどのような経緯だったのか、知っていればルイセンコ主義的な考えを避けられるかもしれない。

https://sp.nicovideo.jp/watch/sm18235914

(前略)

 1928年、それまで無名の農学者トロフィム・ルイセンコは、コムギ種子を高湿度と低温に曝すことによって作物収量を3から4倍にする春化と呼ぶ農業技術を開発したと主張した。低温および湿気に対する曝露は秋播きの冬穀物の生活環では当たり前のことであるが、春化技術は曝露の強度を上げることによって、時には積雪した凍結圃場へ浸漬種子を植え付けることによって収量を増大させると主張した。現実には、この技術は新しいものではなく、収量にいくらかの増大をもたらすものの、ルイセンコが断言した程の収穫も得られなかった。

 ルイセンコが1930年代のソビエト連邦において実地調査を始めた時、ソビエト連邦の農業は農業を基礎にした経済から工業経済への転換の急速な変化、集団農場の誤った運営につながったクラーク(自営農家)の粛清によって重大な危機の中にあった。結果として生じた飢饉は、国民と政府を食料の危機的不足を解決する可能性のある策の模索に駆り立てた。ルイセンコの春化方式は農場にわずかに大きな食料生産をもたらしたため、ルイセンコはすぐにソビエト農業の英雄として認められた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3%E8%AB%96%E4%BA%89

 一九三四年、プスコフの農業技師たちは雪の上に麻の種子を播いた。ルイセンコの命じたとおり正確にやったのだ。種子は水分を吸収してふくれ、かびが生えだし、すべて駄目になってしまった。広い耕地が一年間空地のままにおかれた。ルイセンコは、雪が富農だといって非難することも、自分が馬鹿だとも言うわけにいかなかった。彼は、農業技師たちが富農で、彼の技術を歪曲したと非難した。こうして農業技師たちはシベリア行きとなった。

— 『収容所群島 1』ソルジェニーツィン著、木村浩訳、東京ブッキング、2006年、p. 89-90

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3

(前略)

 中国では1949年から1956年まで、ルイセンコ主義が科学を支配した。毛沢東大躍進政策の中でルイセンコの学説を採用し、数多くの餓死者を出した。この時期、遺伝学のシンポジウムではルイセンコ主義の反対派はこの理論を自由に批判し、メンデル遺伝学を主張することは許された。シンポジウムの会議録において、談傢楨は「ソ連がルイセンコ主義の批判を始めて以降、我々も恐れずに彼を批判してきた」と述べたと引用されている。しばらくの間、両方の学派が共存していたが、ルイセンコ主義者の影響は数年の間大きなものとして残り続けた。

 朝鮮民主主義人民共和国でも、金日成の指導の下にルイセンコ学説を利用した主体農法が実施されたが、土地の急速な栄養不足に陥り、これに天候不良が重なることで1990年代の食糧不足につながった。

 日本の学界にも1947年にルイセンコの学説を擁護する学者があらわれ、ルイセンコの提唱した低温処理を利用するヤロビ農法が寒冷地の農家に広まった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3%E8%AB%96%E4%BA%89

 中華人民共和国大飢饉(ちゅうかじんみんきょうわこくだいききん、英語: The Great Chinese Famine)または3年大飢饉(さんねんだいききん、中国語: 三年大饥荒/繁体字中国語: 三年大饑荒/拼音: Sānnián dà jīhuāng)とは、1959年から1961年までの中華人民共和国の歴史において広範にわたり発生した、大規模な飢饉である。一部の学者は、1958年または1962年もこの期間に含めている。この大飢饉は、人類史上最大級の人為的災害の1つであり、飢餓による推定死亡者数は数千万(1,500万〜5,500万以上)人にも及び、史上最悪な飢饉であったと広く見なされている。なお、この期間中の犠牲者はすべてが餓死によるものではなく、そのうちの6%から8%が拷問や処刑によるものとされる。

(中略)

 集産主義に加えて、ロシアの農学者トロフィム・ルイセンコが唱えた疑似科学に基づいて、中央政府は従来の農法から逸脱した指導を行った。「農業の八字憲法」なる方針が打ち出され、"土・肥・水・種・密・保・管・工"が掲げられた。これは、農地改良・施肥・水利の確保・種子改良・作物の保護・耕地の管理・農具改良、そして「密植」によって農業増産を目指すというものであった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89

 まず、春化vernalizationという現象じたいは(STAP細胞などと違って)でっち上げではない。高校生物の教科書にも載っているように、例えば、秋まき小麦の種子を春先にまくと成長するけど花芽を形成しないのだが、発芽させてから低温処理をして春先にまくとちゃんと花芽を形成してくれる。まるで春まき小麦みたいだ、ということになる。

 実際には、ルイセンコは春化の発見者ではなく、1918年頃にドイツの科学者ガスナーがすでに観察していた。ルイセンコの独自性は、獲得形質の遺伝の証拠として解釈した点にある。しかし、春まき小麦と秋まき小麦は別種の植物であり、低温処理によって秋まき小麦が収穫量の多い春まき小麦になるわけではなく、寒冷に強くなるわけでもない。春化処理した秋まき小麦から得られた種子を何もせずに翌年の春先に蒔いても収穫は望めない。

https://skinerrian.hatenablog.com/entry/2019/12/08/183240

(前略)

 後天的に獲得した性質が遺伝されるというルイセンコの学説は努力すれば必ず報われるという共産主義国家には都合のよい理論であり、スターリンもこれを強く支持した。

(中略)

 多くの農学者は革命の前に教育を受けており、革命後に教育を受けたものの多くでさえも強制的な農業集団化政策に賛同していなかった。そのうえ、当時の生物学者の間で最も人気のある主題は全く農業ではなく、キイロショウジョウバエDrosophila melanogaster)の研究から現われた新たな遺伝学であった。ショウジョウバエによってメンデル比や遺伝率といった遺伝学理論の実験的検証が格段に容易となっていた。

 主なルイセンコ論者のイサーク・イズライレヴィチ・プリゼントはルイセンコを新しい革命的農業技術を開発した天才としてソビエトのマスメディアに紹介した。この時期、ソビエト連邦プロパガンダは、自身の抜け目のない能力と知性によって現実的問題への解決策を考え付いた小作人の感動的な物語をしばしば重視していた。ルイセンコの広い人気は彼に理論的遺伝学を糾弾し、自身の農作業方式を奨励するための土台をもたらした。ルイセンコは次にソビエトプロパガンダ機関による支持を受け、プロパガンダ機関はルイセンコの成功を誇張し、失敗については一切触れなかった。これに、恩恵とルイセンコの理論への反証の破壊を求める科学者からのルイセンコ主義を支持する虚偽の実験データが加わった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3%E8%AB%96%E4%BA%89

 1934年から1940年、ルイセンコの警告とスターリンの承認の下、多くの遺伝学者が処刑されるか(Isaak Agol、Solomon Levit、Grigorii Levitskii、ゲオルギー・カルペチェンコ、ゲオルギー・ナドソンが含まれる)、労働収容所へ送られた。著名なソビエトの遺伝学者で農業科学アカデミーの会長であったニコライ・ヴァヴィロフは1940年に逮捕され、1943年に獄死した。ハーマン・ジョーゼフ・マラー(と彼の遺伝学に関する教育)はブルジョワ、資本主義者、帝国主義者、そしてファシズムを促進しているとして批判されたため、ソ連を離れて共和制スペインを経てアメリカ合衆国へと戻った。1948年、遺伝学は公的に「ブルジョワ疑似科学」と宣言され、全ての遺伝学者は職を失い(一部は逮捕もされた)、全ての遺伝学研究は打ち切られた。

 3千人を超える生物学者がルイセンコ主義に反対しようと試みたとして投獄、解雇、処刑され、遺伝学における科学研究は1953年にスターリンが死ぬまで事実上破壊された。ルイセンコ主義によって、ソ連における作物収量は実際には低下した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3%E8%AB%96%E4%BA%89

バビロフとの論戦 学術的な論争をイデオロギー論争にすり替える
イデオロギーというのは、すごく簡単に説明すると資本主義や共産主義といったような「政治体制」と考えてもらえると良い。

 さて、ソビエトではもう一人遺伝学の研究で著名な人物がいた。
 ニコライ・バビロフ(1887-1943)である。

 彼はモスクワのソビエト科学アカデミー遺伝学研究所所長、連邦地理学会会長などの要職を歴任し、長年小麦の遺伝学を熱心に研究した人物である。

 ルイセンコとその一派は執拗にバビロフを攻撃した。

 そこでは以下のような感じの論争があったようだ。

ルイセンコ「あなたはダーウィンの進化論を信じているようですが、それはなぜです?なぜマルクス弁証法唯物論を信じないのですか。」

バビロフ「私はマルクスの書籍を何度も読んだし、マルクスを愛しています。しかしながら、さまざまなことを注意深く研究した結果、私は今の学説を唱えているわけです。」

ルイセンコ「マルクス・レーニン主義を信奉しているならば、絶対にそのようなブルジョワ的な学説など採択しないはずです。あなたはイギリスやアメリカと通じているのではないですか?」

ルイセンコ「さらに深く言いましょう。あなたは資本主義の手先なのではないですか?だとするならば、国家への反逆であり、人民の敵です。」

 結局バビロフはルイセンコとその一味に反抗したことによって逮捕され、裁判にかけられた末に強制収容所に送られた。

 そこで他の収容者と同じように肉体労働に従事させられ、ナチスドイツとの戦争が激しさを増す中、1943年に栄養失調で餓死した。
 恐らく労働に耐えられなくなり、別小屋に隔離されて、そこで命を落としたのであろう。

 このように、ルイセンコに異議を唱える学者たちは次々と粛清されていった。

ルイセンコの絶頂期
 ルイセンコの天下は長く続いた。
社会主義労働者英雄勲章、レーニン勲章、スターリン賞を何度も受賞するなど、ルイセンコの権力は絶頂を極めた。

 さらに、第二次世界大戦によって、東ヨーロッパにソビエトの衛星諸国が次々と誕生。
 それらの国や中国、北朝鮮にも、広くルイセンコ学説が広まる。
東ドイツではこの学説は根拠のないものとして受け入れず、被害はなかったようだ

 日本でもこの頃にルイセンコ学説が広まり、賛成派と反対派との間で「ルイセンコ論争」を引き起こした。

スターリンの死 フルシチョフの時代へ

 1953年。スターリンが病死する。すると、その影響がすぐに現れた。
 最大の理解者であるスターリンの死で、後ろ盾を失ったルイセンコは失脚。巻き返し工作を図る。

 誰の目から見てもルイセンコの時代は終わったかに見えた。

 スターリン死後の権力闘争で最後まで勝ち抜いたのはニキータ・フルシチョフであった。

 ルイセンコはフルシチョフに学術的に自身の正当性を訴えるのではなく、フルシチョフの話をなんでも「ウンウン」と頷いて、例え間違っているとわかってることでも反論は一切しなかった。

 やがてフルシチョフは彼を気に入り、むしろスターリン以上にルイセンコを支持した。

 こうしてほんの一時は失脚したものの、見事に権力の座に返り咲いたのである。

ルイセンコ学説 世界への影響
 先ほど”東ヨーロッパの衛星諸国や中国などの共産主義国などに影響が“と述べたが、改竄されたデータで伝わった為、当然ながら多大な被害が及んだ。

 特に中国では大躍進政策と共にルイセンコ学説を採択し、凄まじい数の餓死者を出す結果となった。

 さらに、資本主義陣営でDNAの構造や機能が解明されていくにつれて、ルイセンコ学説の信憑性が疑われるようになる。

 時代の流れと共に、次第に暗雲が立ち込めていった事に彼は気づいていなかった。

ルイセンコの失脚
 1964年。ソビエトの指導者であるフルシチョフが失脚し、第一書記と首相の座から追われた。

 またもや最大の権力者からの後ろ盾を失ったルイセンコであるが、新しいソビエトの指導者となったレオニード・ブレジネフから支持を受けることはなかった。

 フルシチョフ失脚と同じ年。ソビエト科学アカデミーでルイセンコ学説の是非について投票が行われ、この学説は途絶える事となった。

 https://raisoku.com/1674

(前略)

 ルイセンコは1976年、モスクワにて死去、クンツェボ墓地に埋葬された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3

(前略)

 ソ連イデオロギーに基づく社会主義の体制のもとで、獲得形質が遺伝すると唱え、力づくで科学を動かしたのがルイセンコだった。メンデルの法則はこのイデオロギーのもとでは認可されないというのだから、これが近々半世紀前のことだったのが、まったく信じられない。日本の大学でも、遺伝学から植物生理学まで、ルイセンコ派の教官が数多くはないにしろ存在していて、彼らはいわゆる若者たちにもてていた。京大の徳田御稔(みとし)の書いた『2つの遺伝学』という本はバイブル並みにもてはやされた。後年に分子生物学で名をなす山岸秀夫などは、若いころルイセンコに惚れこみ、当時社会的には花形だった工学部をやめて植物学に転科して実験したほどだ。しかし、直ちにこのルイセンコ噺(ばなし)のいかがわしさに気付いてしまったのはさすがであった。

(中略)

 周囲では、あれほどルイセンコ、ルイセンコと言っていた人たちも、間違っていたと明言もせず、いつの間にかゾローッと新しい生物学のほうへ変わっていった。世の中とはそんなものかもしれない。

https://brh.co.jp/s_library/interview/30/

 メンデル遺伝学を否定した時点でルイセンコ主義が誤りだった事は明白だが、ルイセンコ農法の歴史的経緯はこんな感じだった。ポイントは"イデオロギーを優先し国家ぐるみの八百長で国民を様々な損失、或いは死に至らしめるよう騙した事"にある。イデオロギーが優先される社会だと真実を見失って、まさしくディストピアな世の中になる。

https://twitter.com/himasoraakane/status/1650788452475207680?s=46&t=6MVYq5Ovmu_MXJ16l5mXpw

 イデオロギーによる疑似科学を科学より優先すべきでない教訓を得られはしたが、少なくともルイセンコ主義者だった人達の信頼性は壊滅的になっただろう。当然の報いだが。

https://courrier.jp/news/archives/314782/

 情報収集の方法が微かな伝聞くらいしかなかった当時に此の大厄災に巻き込まれず生き延びる自信は私にもないし、基本知識や思考力が無いと現代でも。。それくらいに"観えない世界"というのは恐ろしい。

 日本の公教育では、国民社会主義であるナチス・ドイツヒトラーによる独裁政治とユダヤ人迫害は頻繁に習う一方で、ソ連スターリニズムや大粛清、またルイセンコ農法を含む毛沢東の"大躍進"政策は習う機会が皆無である。此れも敗戦国か否かというイデオロギーを感じさせる。

 ホロドモールと大躍進、2つのジェノサイドは、ナチスホロコーストと異なり、私たちの間で一般「常識」化していない。
 だから、自分たちが認識している、歴史の順番のなかにも入ってこない。

 当然、いま起きている事情に対しても、明らかにミスリーディングな見立てをする恐れがある。

https://note.com/yanabo/n/nf9d4f93531b2

 分類学について友人達と議論する際にも"此のくらいは最低限しておかねば議論にはならないから"という理由で必ずやる作業がある。"生物種が異なる"、"亜種で異なる"という論証は、其れが真実であれば現地調査で"未知の詳しい生態を見いだす可能性に近づける"などで役立つ事も多い。

 しかし教条主義や商業主義などでイデオロギーや目先の利益を優先した分類概念を唱える人達もいて、更に其れを"科学"だと言う。そういう分類概念だと他の科学分野にも誤認が飛火しやすくなってよろしくない。

http://totalnewsjp.com/2023/07/03/taiyoko-60/

 科学主義的になり過ぎるイデオロギーという危険性もあってなおバランスが難しい。

 こういう話に普通の人は「何を信じて良いか分からない」と吐露される。身も蓋も無いハナシ実際そうで、だから"自然の理"を観る。科学と商業やイデオロギーとの相性は結構わるい。

http://yurukuyaru.com/archives/90980375.html

https://www.dailymail.co.uk/news/article-12268901/amp/Texas-professor-fired-teaching-students-sex-determined-X-Y-chromosomes.html

 科学の本当の面白さは、イデオロギーの外にある。其の本質はルイセンコ論争からも想う、犠牲者達を悼みつつ。