【Memorandum】分類手順として観察と考察は欠かせない

 コンビニで急いで買い物をしている時に、ゼロコーラをコーラと誤同定して買ってしまった事がある。気づいた頃には既にコンビニから遠ざかり買い直す気分にもならなかった。何度も飲み比べしていたから"味見すれば違いが分かる"とは知っていたものの、買う前に商品の味見をしてはならない。だからラベルのデザインを参考にするのだが、いかんせん最近のコーラとゼロコーラのラベルデザインは紛らわしい。とはいえ僅かな差異でも大企業コカ・コーラが食品で景品表示法を違える対応を流石にしないだろうし、よく見なかった自分に認知的な非があったので其の時は諦め、コーラを飲みたかったと惜しみつつゼロコーラを嗜んだ。

http://koredeiiya.blog.jp/archives/8823586.html

https://www.google.co.jp/amp/s/biz-journal.jp/2020/08/post_173975.html/amp

https://ameblo.jp/vincolo-free/entry-12603148767.html

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 科学研究において"観察"は外せない第一の手順。そして観察で得られた事からの"考察"は第二に必須な手順。其れらは様々な科学研究や観察・考察の基礎について書いてある書籍でも大抵の場合に説明がある。考察により理解した事から次の観察予定・計画も立て易くなるが、考察が誤っていれば次の観察は上手く進み難い。

 ただ惰性で観察や考察をするのと、極限まで精査するのとでは得られる結果が正反対になりうるから、どちらを尊重するかどうかは予め知っておかなくては今後の考察に差し支える。科学は勿論可能な限り調べて未知を探るものであるから、発見される事によって解釈が変わる事もあるし、解釈に誤りがあって変わらない事もある。ただ知見が増えすぎると後世の研究者達が知見の量に押し潰されてしまう為、出来うる限り1回の論文で簡潔な結論を出す事が求められ、将来を見据えて努力する。

 例えば、文献の写真や実物をモニター越しに観る時と、実物を様々な角度から顕微鏡を使ったり使わなかったりでも眼で観る時で得られる情報の精度は異なる。データに拘った時と、拘らない時で得られる結果も異なる。分類をやるのには粋を凝らした観察と考察が必要になってくる。

 一般常識でも、ゴミの分別をやるのに燃えないゴミを燃えるゴミとして出したら回収業者に迷惑をかけてしまうから、ゴミの分類は一般常識的には間違えないようにされる。

 そう考えれば、生物の分類をやるのに他観察者が混乱しないような方法を採るべくあるのは科学的に考えれば当然と考えられる。しかし手法を雑なまま、不安定なままにしたそうな人達は少なくないという不可思議さがある。

f:id:iVene:20230401140157j:image(其処までやらないと解らない事があるから、解るまでやる。最初は何も分からないのは誰しも同様で、資料が揃いきる迄は言えない事だらけで悩む。中途半端だと自然現象の事実とは真逆の解釈になってしまう可能性がある。セッカチな人には科学研究が向いてないという話は、そういう事になり易くなってしまうため) 

 論文を書くことだけ或いは簡単で大雑把な作業だけが仕事になっているタイプの学者・研究者は、観察や実験、論理的思考を疎かにしている場合が多いから判断を誤る事も多い。

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https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ece3.9069

 分類屋の友人とも話題になったが、上記urlの論文は「"亜種"という分類概念の利用を中止し使わないよう提唱するもの」らしい。しかし此の論文内では国際動物命名規約第四版にて説明される"亜種よりも低位の実態"の記述についての考察が抜けている。というか"亜種よりも低位の実態"と亜種をごっちゃに考えられてあって、ついでに"種"の境界についても鮮明に見出せていないらしい。そりゃあ其の理解なら絶対に混乱する。確かに既知分類は少なくない量の"解釈不能な変異性"である地域変異例に亜種名や種名が記載されていたりして混乱するが、だからこそ其の部分を理解しようとしないと科学的には学名の使用すら憚れる事になる。誤っていそうな既知分類群は、其れもまた国際動物命名規約第四版にて説明される"未確定種"と考え後の検証を待つ事が最善策であると考えられる。

 これまでの種概念は、確かに大多数が状況証拠から間接的に考えられたものである。しかし可視でない生殖隔離の検証実験など"実験手技的な不手際による瑕疵"と"自然現象"の判別を間違えやすい検証方法で再現性を理解するのは現実的とも考えられない。

 種・亜種・"亜種よりも低位の実態"は客観的な"隔離された系統の有り様"から考えるしかない。地球外生物の場合はどうか知らないが、"生物とは何ぞや"という解釈は兎も角として地球でネイティブに生じた生物には各系統がある。

 私や私の友人達も生物学的な"亜種"の論理に一致する生物集団の実態をクワガタムシ科等から多数認知し、一般的にも歴史的にも亜種概念を利用した分類は汎用され、観察不足の人達以外によって混乱する事が無い。「生物の分化の段階は様々であるのに、亜種概念を認めないという極端な土台の主張は怪しい」と友人からお言葉をいただいたが全く同感だった。

 "亜種"の論理への理解は「"種"と"亜種よりも低位の実態"のどちらにも当てはまらず、尚且つ中間にある分類概念に当てはまる生物集団」である。そう考えて、様々な検証をすれば考えられる亜種の分類法は限られ、同様な消去法的理解で"亜種よりも低位の実態"の中の分類も其々どう考えれば良いか解される。

https://ivene.hateblo.jp/entry/2023/03/16/075141

 E・マイヤーは、あらゆる状況証拠から種概念を導き出し、其れが一般的に汎用性を認められているのみで、当時の隔離の詳細については精査が乏しく論争があった。しかしマイヤーの主張に反対した意見も此の論文も、あらゆる生物の観察・考察不足なものによるものと理解可能である。分かっていない者同士で論争しても何も進まない。「"亜種"という言葉が現状の分類学論文書きをする研究者達にとって観察や検証も面倒だから不都合故に使いたくない」だけの"結論ありき"の論述としか読み取れない。

 様々な論文が引用された論文でも、ただ大雑把な観察と他人の知見の寄せ集めのみで考察をしただけでは、嘘や誤った理解が書かれてある論文がコンタミしていたら誤った結論になってしまいうる。眼に見える事の観察を怠れば誤った考察のコンタミに気付く事は無い。其の問題によって混乱した既知分類群の大多数を考えれば、億劫な気分になるのも気持ちは分かる。しかし自然界から丁寧に精密に調べれば、技術的に不可能な事が多くとも可能な理解は見つけられる。

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 遺伝子による系統分類についてしても其れが主軸にはならず、形態での分類が優先されるのは、系統分類が深く検討される単細胞生物の分類でも常識的であり、遺伝子比較は"あくまでも参考"とされる。遺伝子の変異は系統により、時代や環境により速度や頻度、方向性が変わると考えられ、1種で見られる複数のクレードの間から別種のクレードが伸びる例は多々ある(論文上では平均化されていて絵では見えてこない場合も多い)。系統によってはmtDNAと核DNAで、或いは遺伝子領域ごとに変異の頻度が著しく異なる事も考えられる。だから或る分類群のクレードが大集団を成している別の分類群のクレードに内包される系統樹の結果は全く不思議でない。形態のみによる系統分類も然り、情報の欠落を無視したものである場合が多い。だから系統分類のみでは種や亜種の基準を求められないと解る。

https://www.researchgate.net/publication/317818189_New_Mitogenomes_of_Two_Chinese_Stag_Beetles_Coleoptera_Lucanidae_and_Their_Implications_for_Systematics

 論文によっては"統合分類"と称して系統分類がシノニム処理の提唱根拠になってたりするが、其れは合理性が無いと解る。隔離され全く見分けられる生物集団を分けて考えないという手法は分類学に逆行する。系統分類の結果は系統分化を少し推測する事までは出来ても、"種分化"という言葉には直接的に結び付けられない。

https://meridian.allenpress.com/jes/article/54/4/430/430949/Junior-Synonym-of-Prosopocoilus-blanchardi

 系統分類を優先した基準の分類法になれは"亜種よりも低位の実態"に該当する生物集団にも種学名が付いてしまいかねなくなり、種概念の混乱を促す恐れがある。"遺伝子も形質"と言う理屈だけでは種や亜種の概念に相当するだけの根拠として意味があるか無意味なのか不明瞭。また"亜種"という言葉を抜けば、命名規約と生物学から読み取れる"種"と"亜種よりも低位の実態"との線引きがハッキリしなくなってしまう。

 E・マイヤーは、"進化における還元主義(reductionism)"に反対しているが、私も全く同感である。そういう所で進化上未知な部分が多い故に解明不可能と目される様々な問題があるのに、其れを分かった風な口で推論では無く解明したかのような表現をやる研究者は存在する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E5%85%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 種と変異の示す概念の境界がボンヤリした状態で、種概念について"隔離と分化"の根拠とするには曖昧過ぎる系統分類を主軸にすれば、極論「人間とハエも中間的な生物種や集団の系統の存在を全て考えれば連続的な変異に見えるから同種」と定義し直せる論理にもなりかねない。全ての既知分類群が"解釈不能の変異性"に含まれシノニムだという論理にされかねない。

 各概念を全てを曖昧化すればデータの真偽も考えなくて良くなって非科学的な商売をする人達にとっては都合が良くなろうものだが、分類出来る手法を曖昧化するのならば其れはもう"分類学に従っている"とは言えなくなる。

 命名規約では生物学等の規制外の考え方は自由としつつ、各条文は不可分と明記され亜種の考え方を抜く事は、種と"亜種よりも低位の実態"の概念を混同させかねないから罷り通らない。生物学は物理法則に従う科学。だから科学の世界では、あらゆる生物で"形態と隔離"を考えた分類が優先して基準とされるようになっている。此の基準をズラすような、観察や考察の不足した人達の都合に合わせる理由こそ実在性が無い。

https://www.kodomonokagaku.com/read/hatena/5097/

 かと言って"遺伝子を観ないで良い"という訳ではなく、寧ろよく観察と考察をして可能な解釈と不可能な解釈を理解すべきという話。私は調べた末に其のように考えて、敢えて煩雑だったり不安定な手法や知見についても言及をあまりしていない。どの手法が良いかは過去から未来まで、世の中の考え方も各々精錬されゆく。

https://www.daitoku-scale.co.jp/magazine/9901587  

 2010年に出版された「世界のクワガタムシ大図鑑」には交尾器や遺伝子の観察をせずに分類をした事や"他人の褌"で図鑑を書いてある旨を注記されてあったが「本来は其れ以下の考え方になるべきでは無い」という意味で科学的姿勢のメッセージ性を見出せる記述だった。確かに"観ないで良い科学・考えなくて良い科学"では"将来の発見の可能性"を閉ざしてしまい非科学的である。目隠しでは観察出来ないし正確な考察を出来ない。

f:id:iVene:20230401145659j:image(漫画「ジョジョの奇妙な冒険」より)

【Reference】

Fujita, H., 2010. The Lucanid beetles of the World Mushi-sha’s Iconographic series of Insect 6.472pp., 248pls. Mushi-sha, Tokyo.