アルフレッド・R・ウォレスの厭世観

 過去に大学の恩師から「良書だよ」と紹介された書籍に1869年ウォレス著の「マレー諸島」があり、久々に和訳本を読み耽っていた。古書には名著が多い。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080912/

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080929/

 原著者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスはチャールズ・ダーウィンと共に進化論で名を馳せ、歴史的人物として有名。そのウォレス氏が今にも通ずるような厭世的な事を同書に書き残していたので記述を一部下記にて引用する。今日にも見る、まるで新たに発せられる厭世観は此の時代から殆ど変わっていない事も多い。此のシンプルな話が160年近くも世界的に色褪せないという事は何を意味するのか。

f:id:iVene:20220915013233j:image

(Alfred Russel Wallace, 1823 - 1913)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AC%E3%82%B9

(前略)

野蛮人と呼ばれるべきは誰か
 さて、私のつとめは終わった。この地表を飾るもっとも大きくもっとも豊かな島々をめぐった八年間の放浪を、多少なりとも詳細にわたって素描してきた。その景観、植生、動物、 そしてそこに住む人々についての私の印象を伝えようと、それなりに努力してみた。さまざまな興味深い問題については、自然を研究する人々のためにと少しばかり長々と書きつらねた。読者の皆さんにおいとまをこう前に、さらに興味深く重要な問題について若干の所見を述べさせてもらいたいと思う。それは未開の生活についての考察からもたらされたものであり、そこには文明人が未開人から学ぶことのできるなにかがあると私は信じている。
 私たちの多くは、私たち高等人種は進歩してきたし、進歩しつづけていくものと信じている。もしそうならば、なんらかの完成した状態、なんらかの最終目標が存在するはずであり、 私たちはけっしてそこまで到達しないかもしれないが、真の進歩はかならずや私たちをより近くまで連れていってくれるにちがいない。人類が向かってきた、そして向かいつつある、 この理想的な完成した社会の状態とは一体どのようなものなのか?もっとも優秀な思想家たちは、私たちの本性の知的、道徳的、身体的な諸部分がバランスよく均等に発達することによって可能となる、個人が自由で自立している状態だというーー私たち一人一人が、なにが正しいかを知っていると同時に、正しいと知っていることを行おうとする抗い難い衝動を感じることによって、 一人の社会的な存在として非のうちどころなく相応しくなった状態であり、したがって法律も罰則もまったく必要ないような状態である。そのような状態では、 誰もが道徳的な法則を細部にいたるまで理解できるバランスよく組織された知性を持ち、その法則にしたがおうというそれぞれの自由な衝動以外の動機は必要とされない。
 ところが非常に興味深いことに、そのような完成された社会状態への接近が、文明化の程度の非常に低い人々のあいだで見られるのである。私は南アメリカと東洋で、未開人たちの共同体のなかで暮らしてきた。彼らは法律も裁判所も持っていないが、しかし村の世論がいかんなく発揮されているのである。各人は仲間の権利を良心的に尊重しあい、その権利の侵害はめったに、あるいはまったく起こらない。そのような共同体にあっては、誰もがほぼ平等である。そこには教養ある人と無知な人、富める人と貧しい人、主人と召使といった、私たちの文明の産物である大きな差別はひとつもない。富を増す一方で利害の葛藤をも産み出す労働の分業の普及ということもないし、文明化した国々の人口過密が不可避的にもたらす生存あるいは富のための過酷な競争も闘争もない。すなわち大罪を誘発する原因をことごとく欠き、小罪は抑制されているのである。そこには世論も少しは影響しているが、主な要因はあらゆる人種が多少なりとも生来的に持っていると思われる正義と隣人の権利への自然な感覚である。
 さて私たちはといえば、知的な達成においては未開状態からはるかに進歩しているにもかかわらず、道徳的にはそれに見合うほどは前進していない。なかなか手に入らないものさえ不足していない階級や、世論が大きな影響力を持つ人々のあいだでは、たしかに他者の権利が十分に尊重されている。また、私たちはこれらの権利の範囲をかなり拡大し、人間のすべての同胞をその内に含めていることも事実である。しかし声を大にしていいたいことは、私たちの人口の大きな部分はけっして未開人の道徳律以上に前進していないし、それ以下の場合も多いということである。道徳性の不足は現代文明の大きな汚点であり、真の進歩にとって最大の障害である。
 前世紀とくにその最後の三〇年間の知的および物質的な発展は、その恩恵を十分に自分たちのものとするのが間に合わないほど急速に達成された。自然の諸力を支配したことによって、人口が急速に増加し莫大な富が蓄積された。しかし、それらとともに貧困と犯罪ももたらされ、また下劣な感情と激烈な熱情とが培われて、私たちの精神的および道徳的な状態は平均すると下がったのではないか、また悪が善にまさってしまったのではないかという疑問を禁じえないほどになってしまった。自然科学とその実践的な応用における驚異的な進歩に比較すれば、私たちの行政、司法、公教育の体系も、社会的および道徳的な組織の全体も、 いまだ野蛮な状態にあるといわざるをえない。また、自然の諸法則についての知識を商業と富をさらに伸長させる目的で利用することに私たちの主力を注ぎ込みつづけたならば、それを追い求めるのに熱心すぎたときに必然的にともなう悪が、手のほどこしようもないほど巨大に膨れあがってしまうかもしれない。
 いまや私たちは、少数者の富と知識と文化は文明を構成するものではないし、そのようなものが私たちを「完成された社会状態」に向けて前進させてくれはしないという事実を、 はっきりと認識すべきである。今日の巨大な製造システム、膨れあがった商業、過密な都市、 これらがかつて存在したよりまちがいなく大きな無数の人間的な苦悩と罪を支え、また次々に生み出している。彼らは死ぬまで働きつづけながら、増大しつづける軍隊を創造し、維持している。この負担に耐えることは、快楽や慰安や贅沢といった、彼らの身のまわりにいくらでもあるが、楽しむことなどけっしてかなわぬ夢を持ちつづけるよりずっと難しい。この点からすれば、彼らは自分の部族とともに暮らす未開人より、はるかに悪い状態にあるといわねばならない。
 この結論は自慢げにいうようなことでも、それで事足れりとすべきものでもない。私たちの文明のこの失敗がもっと広く認識されるようにならないかぎり――この失敗をもたらした主要な原因は、私たちが自分たちの本性の共感的な感情や道徳的な資質をもっと徹底的に養成発展させることを怠り、それらの効果を立法や商業や社会組織の全体に広めようとしなかったことにある、私たちが社会の全体として、すぐれた階級の未開人たちより、いかなる意味でも本当にまさる状態になることは、けっしてないだろう。
 これはいまだ文明化していない人々の観察から学んだ教訓である。それでは読者の皆さん、 ごきげんよう!

追記

 私たちの社会条件が完成に向かっていると信じている人々は、この言葉を粗雑で大袈裟なものと考えるかもしれないが、私にはこれ以外の言葉を私たちに適用することはできないのではと思われる。私たちの国は世界でもっとも裕福ではあるが、人口の二〇分の一近くは救貧法の保護を受けている被救済民であり、三〇分の一は犯罪者と判明しているものたちである。これに発覚を免れている犯罪者と、多かれ少なかれ私的な慈善にたよって暮らしている貧民(ホークスレー博士によればロンドンだけで毎年七〇〇万ポンドが費やされているという)とを加えるならば、じつに人口の一割以上が被救済民か犯罪者だといわねばならないのかもしれない。これら両階級は無為なままに、あるいは非生産的な労働にとどめおかれており、また牢獄にいる犯罪者一人当たりの年間費用は一人の真面目な農業労働者の賃金を超える。犯罪によらなければ生活の糧を得られない一〇万以上の人々が野放しのまま社会に寄食し、そして私たちの目前で数千人以上の子どもたちが無知と悪徳のなかで育ち、次の世代に訓練された犯罪者が供給されているのを、私たちは許しているのである。このようなことが、 富の急速な増加、巨大な商業と工業、機械力と科学知識、高度な文明と純粋なキリスト教信仰を誇る国で起こっているとき、これを社会的に野蛮な状態と呼ばずになんといえばよいのか、私にはわからない。また、私たちは正義を愛することを誇りに思っているし、法律が富めるものも貧しいものも同様に保護していることを誇りに思っているが、処罰として罰金を課しており、裁きを受けるにもまず費用の問題を越えねばならないこのどちらも、貧しいものにとっては野蛮な不公平、あるいは正義の否定でしかない。また私たちの法律は、法律上の形式を少しばかり無視するだけで、個人の意図や希望に反してその人の財産をすべて他の人に渡し、その子どもたちを困窮に追いやることを可能としている。そのような例が所有地の相続に関する法律の施行によって起きてきたし、そのような非自然的な不公平が可能だということは、私たちが社会的に野蛮な状態にあることを物語っている。このことが、私の言葉づかいを正当化するもうひとつの実例である。我が国では土地の絶対的所有が、それを所有せざる圧倒的多数が土地に生存する法律的な権利を、まったく考慮することなく認められている。大地主は合法的にその所有地の全域を森林や狩猟地に変更し、それまでそこに住んでいた人間をすべて追い出すことができる。イングランドのように人口の稠密な国では各エーカーごとに所有者と居住者がいるので、このようなことは人間が人間を合法的に殺す権力といわねばなるまい。このような権力が存在し、どれほどわずかな程度であれ実行する個人がいるということは、真の社会科学の観点から見て、私たちがいまだ野蛮状態にあることをしめしている。

(A・R・ウォレス【著】新妻昭夫【訳】「マレー諸島」より引用抜粋)

 しかし様々書かれたとはいえ結局は世界大戦に突入していく後年を、ウォレスは予期していたのかもしれない。

 ウォレスは"心霊主義"に傾倒し晩年の評判がよろしくないが、時代考証を踏まえれば実際に世界広くを駆けたウォレスからすると、沢山の教訓があるのに改善されない人々の意識を悲観したのかもしれない。当時は今よりも"科学"が殆ど知られない時代だったから仕方が無い。

 私もブラック企業という存在を直視したとき、オモテでは華やかな話をされる一方で、裏方サイドでどれだけの人々が苦しんでいるのかという事実に、とても考えを改めさせられた事がある。たいへん心が痛かった。華やかな未来の世界はあるのだろうか。

 インターネットも長らく無法地帯だったが、2022年10月1日からプロバイダ責任制限法が改正される。良い傾向と考える。